2007年09月25日

移転のお知らせ

このブログを自分のドメイン下に移転します。
移転先URLは、
http://days.chanm.com/
です。

最近こっちのブログはあんまり更新してなかったのですが、
また何か書いていきたいと思いますので、
よろしかったら、お付き合いくださいませm(_ _)m。
posted by chanm at 16:52| Comment(38) | TrackBack(1) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月27日

表現をするということそのもの

ここ半年またはてなの方で遊んでたんだけど、パーソナルに近いことはやっぱりこっちの方が書きやすい気もして、久々に戻ってきますた。
どなたか見てくださっているか分かりませんが生存のご報告をば^^;。
(といいつまたもや移転するやもしれませんすみません、)

先日、半休を取って舞台を見に行きました。『血の婚礼』というのが、松本に来てたので。
(公式サイトはこっちなんだけど主役の未來君はものすごい日に焼けている時にこれを撮られたのか?こっちこっちが近いイメージ。まあいいや)

主演の未來君は(森山君というとどうも違う人が出てくる)、
かのセカチュー(映画)で世にもナイスバディな長澤まさみちゃんと
水着で戯れていた人(というシーンが一番心に残っている私は頭がおかしいと思う)。
何かのきっかけで彼が踊っているのを見ていらいものすごく尊敬している。
まず上手いというのと、それと、とても軽やかに、そしてとても真摯に踊っていたので。
器用な感じではないんだけれど、つい目で追ってしまう感じ。

家がダンススタジオだったんでしたっけ?小さい頃からいろんなダンスやってて、
若いのにダンスカンパニーの座長さんとかをやっている(うろ覚え)。
とにかく、ドラマと舞台では随分と役割の違う人だ。

まあいいや、そういう人が近くまで来るなら観に行くじゃんと思って行ったのでした。
あとソニンちゃんと浅見れいなちゃんも観れるし(二人ともすき)。
(東京の人は信じられないだろうけど、長野県って結構いい舞台やオケが来ても全席埋まらなかったりするのよ。まあ今回は前売り買ってたんだけど、当日券も売ってたな。。アンビリーバボーです。)



前置き長かったな、さて。普段行ってもオケのコンサートくらいなので、舞台を見るのは久しぶり。
『血の婚礼』というのは、ロルカという人が書いたスペイン戯曲で、初演は1933年だったもよう。
バレエとか舞台とかで演じられることが多いよう。


で、あらすじが身も蓋もない。 簡単に言うと、

  • 結婚式の夜、花嫁(ソニンちゃん)がかつての恋人(未來君)と逃げる。
  • 花嫁が逃げた相手の恋人は、奇しくも花婿(岡田浩暉さん)の父と兄を殺した男の息子。
  • 花嫁は3年前、深く愛し合ったその恋人を捨て従姉妹(れいなちゃん)に押し付け、花婿と付き合いだした。
  • 捨てられた恋人はその従姉妹と結婚し、一児をもうける。
  • しかし花嫁の結婚を知って心の中に嵐が再燃するその恋人。
  • その姿を見て自分も火がついてしまった花嫁。
  • そして二人は逃亡。
  • 何も知らなかった、温厚で優しい花婿は嫉妬に狂う。
  • 花婿の母親(江波杏子さん)は、血筋は争えないと嘆き、そして息子に、ナイフを渡す。夫と息子の命を奪ったと忌み嫌っていたナイフを。
  • 二人はついに花婿に見つけられる。
  • そして男達は刺し違えた。
  • 残るのは悲しい3人の女。
  • 夫と息子の全てを失った母親。
  • 夫が他の女のために死に、子供とともに残された女。
  • そして、自分の欲望のせいで2人の男を失い、2人の女を不幸にした女。


これが日本の小説だったら「それで終わりかよ!」と突っ込む私ですが、そこはスペイン。
・・スペインの話ってビゼーが作曲した『カルメン』と『アルルの女』くらいしか知らないんだけど、
カルメンでは、男が許婚をスルーしてカルメンに恋して嫉妬で彼女を殺してしまう話、
アルルの女も、アルルの女に惚れてた男がそれを諦めて選択した幼馴染との結婚式の日にアルルの女と駆け落ちする男の話を聞いてそいつを殺しついでに自分も自殺する話。
で、血の婚礼。
・・・・スペインって・・・(偏見?)。



で、感想。
まず演奏が渡辺香津美さんという有名なギタリストの方のライブ演奏(ずっと舞台上にいる)で、とても美しかった。
最小限の人数構成と音楽や装置で、演じる人たちの生身の存在感が際立ってた。
ストーリーはみんな知ってること前提なのかな、説明の台詞が少ない舞台なのでちょっと設定が分かりづらいところがあった。
未來君のダンス(フラメンコ)の見せ場が多かった。ソニンちゃんのフラメンコも素敵だった。
でもまあみんなスペインっぽかったかっていうとうーん、拍手とかノリとか微妙にぎこちなかったような。
ってそれはしょうがないか。



そんなことはどうでもいいんだ。
ところで私は、小説にはついついオチを求めてしまう。
つまりはエンターテイメントとしてしか捉えられないところがある。
基本的には推理小説くらいしか読めない。
雰囲気小説とか苦手。オチがないと損した気分になる。
舞台や映画も、笑えたり迫力があったりするものを中心に観てきた。


だから、不条理が不条理という言葉で形容もされずに不条理なままで捨て置かれるという
こういう舞台の形式を見たのは初めて。


でも不思議に観た後すごい充実感を持った。
それにびっくり。


この話は、人間の感情がむき出しになる。
演劇はそういう要素が多いのかな、演者さんが、
どれだけその役自身であり、その役として狂えるかということが、
問われる。


それぞれの役者さんのその魂のエネルギーみたいなのに打たれた。
ストーリーが面白いかとか、台詞の言い回しとか、どうでもいいわけじゃないんだけれど、
その瞬間その瞬間に、目の前に、それを演じている人たちではなく、
本当に人生を送っている人たちがいるように感じた。
役者の人たちはもちろん台詞は全て頭の中に入っているけれど、でも
どの瞬間でも、私の目の前にいた人たちは誰も、未来なんか見えていなかった。
それがなんかすごく美しかった。


スポーツもそうだけれど、芸術もどれだけ自己と真剣に向き合うか、嘘がないかということが大事で、
それは本当に苦しい作業だけれど、それがないと人に届かない。


この舞台では確かに私には何かが届いて、
そしてその表現そのものに私は感動した。



言葉には出来ないけど、いろいろと忘れていたものを思い出したように感じました。
芸術、やっぱりたまには触れないとダメだね。ほんと痛感しました。
随分淀んでいたらしい。反省。
posted by chanm at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | げいじゅつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

道端の予言者

元々人に相談されることはほとんどないんだけど(笑)、
なんか、がんばってる人を、がんばってるがゆえに、
何かしてあげたくなって、こっちもがんばって、
”大丈夫だよ”とか言っちゃって、いろいろ理屈をつけて励ましたことは
たいてい上手くいかない、というジンクスを持っている。

告白でしょー、受験でしょー、プレゼンでしょー、、、。

まあ、もちろんその人の問題で、
その人はもう心の中で気持ちは決まってるんだけどとにかく誰かに背中を押して欲しいんだ、
っていうオーラが出ているときじゃないと
安心してそんなこといえない小心者なので、
私の影響はほとんどないんだろうけど。。


キャラを無理して励ますよりは(普段テンション低い)、
”まあとりあえずリラックスでもしてさ”、
とか、普段どおりに自分の言葉で言うのがよいと
ここ最近で、やっと悟りました。
”せいぜいがんばれや”、とか(←励ましてない?)。


でもたまに、ふと誰かのことが気になって、
というか誰かの心の”欠損”が、
なぜか私の脳にビジュアルとして出てくるときがある。
なんか、もやっとすんの。


自分の欠損ではないので放っておけばいいんだけど、
自分の脳(心か?)に浮かんできちゃっているので
気になってしょうがない。


そういう時は、何だろう、
誰かを無理やり励ますときとは違って、
伝えたい言葉が、しかも私のキャラと違う言葉が
頭に浮かぶ。


しょうがないのでその人を捕まえて
飲みにでも行き、伝える。
その言葉は、断言で、そして、根拠がない。
(普段私の考えていることではないから)
でもそれは、相手の人にとって、
伝わるべきタイミングに、伝わるべき言葉が届いていと
受け取られることが多い。

少なくとも、私が普通に励ましたときの勝率よりはいい。


うまくいかないもんである。



うちは仏教だったし、寺のそばでずっと育ったので、
私は、普通に霊(主に先祖)の存在、
というか見守っている存在があることを認める価値観を持っている。
なので、そういう時は思う。
ああ、この人のじーちゃんかなんか、とにかく守護してる霊が、近くの人間を使って
伝えたかったんだろうなあと。
そのときだけ、この人のためには何でもしあげようと思ったりするもの(普段そういう思考は絶対にしな人間なんで、、^^;)。

まあ、そうじゃなくても、自分の潜在意識的なものだったり、何か忘れてたような琴線に引っかかっていたり、要因があるんでしょうね。


どんなに論理を破綻なく積み上げて結論を出したことよりも、
突然根拠もなく浮かんだ結論に、より強い確信を感じることがある。

道端で突然、預言者に出会ったように。


逆に普段バカ話ばっかりしている友達が、
その日だけ、自分にだけ浸み込むようなメッセージを
本人も気づかずに、くれることもあるしね。



論理っていうのはさ、何だろう。
人間の脳で組み立てるものであるにもかかわらず、
何か外部から取って付けた装置のような気が、私はする。
合理モジュールとか、
ランキングモジュールとか、
バランスモジュールとか。
もしくはプログラム。
便利だし、お世話になってるけど。
まあ、本質ではないよね、みたいな。


どうもみんな、それには乗らない回路を持ってるんだよね。
そんな気がする。
それは脳なのか心なのか、両方なのか、わかんないけど。

論理なんてかったるいプログラムをすっ飛ばして、
”本当”がひょっこり出てくることがある。


それが面白いなあ、と思う。このごろ。




posted by chanm at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 生活。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

自分に関しては、省エネしてちゃいかんね。

オーラの泉を前見たら、美輪さんが、
”他人に何かしてあげようと思ったらエネルギーは無限に涌いてくる”
与え始めると、流れ出す、みたいなことを言ってた。

自分だけに使おうとか、自分のことだけ考えてると、
案外湧いてこないものだって。
人のために、って思うと、力が倍になったりする、と。

この先は、彼(彼女?)みたいに
壮絶な苦労を乗り越えてきた人じゃないといえないだろうけど、


自殺を考えてみたりする人、弱い人は、突き詰めていくと、
”自分の事しか考えてない利己主義者が多い”とのこと。

”自分の事ばかり守ろうとして、自分の事、保身の事ばっかりに汲々として、だから弱いの。”


・・個人的に、自殺しようと思ったことは一度もないのでいまいち判断できないけど、あんまり他人のこと考えて自殺してる人は見たことないのは確か。

でも、一度そういう守りの思考になっちゃうと、すべてが怖くなる。
「みんなが私を責める」とか
「私なんて生きていても意味がない」とか
「いいことなんてもう起こらない」とか、
「もうおしまいだ!」とか、もう
私私私私私私私私私私私私!
って思考でいっぱいになっちゃうのよね。
本人がどんなにつらくても、
そういう自己中心的悩みは、他人にはどうしてあげられようもない(というかどうでもいい)ので、
周りも助けにくい。

気をつけたい思考だ。


前世で何かあったのか、私は自殺されるのが嫌い。
(幸い、身近では経験していないんだけど)
たぶん、自殺した人の葬式には行けない。
思い出すのも嫌だし、墓参りも行くかわからない。


だから、周りの人にも、自殺はしてもらいたくない。
身勝手ですが。



・・本来、人のモチベーションもエネルギーも能力も
無限だと私も思ってる。
ただ、先にそういうものが貯まっていて、
その残量を見て使っていく方式なんじゃなくて、
エネルギーを傾ける対象が決まったとたんに、
「はいよっ!」と体の何かが反応されて
エネルギーの造成が始まる方式なんだと思う。


何かに全力で当たって、そのときに持っているエネルギーや能力を出し切ると、
次のエネルギーと能力が出てくるけれど、
出し惜しみしている限りは
それ以上のモチベーションもエネルギーも能力も、
涌いてこない。
なんだかそんな仕組みになっているみたいだ。


目の前のことに全力で当たる以外に、
自分がより元気に、そして有能になる方法はない

ということに遅まきながら気づいたここ数年です。


人からはやる気があるようにはさっぱり見えないらしい私なんですけれど(汗)、
今後ともいろいろとあがいていきたいものです。ええもちろんごきげんに。


今年一年、どうもありがとうございました。来年もよろしくです☆
posted by chanm at 19:45| Comment(6) | TrackBack(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月19日

面倒を引き受け続ける人。

私は「いい人」でもなんでもないので、

何か頼まれたら「絶対嫌です(笑顔)」とか、
引き受けておいてしらばっくれたりとか、
引き受けておいて引き延ばすとか
それで非難されて開き直るとか、
平気でするわけだけど(だめ人間)、
おかげで、あんまりストレスは、ない。

言い訳をするとすれば、
仕事でも付き合いでも、
自分が気分良くやる、というのが
相手に対しての礼儀だと思っているので、
気分悪く(文句言いながらとか、がまんしながら、溜め込みながら)やるくらいなら、
やりたくないとか、金払えとか、手伝えとか、お前の仕事だろとか、ていうか一緒にやろうとか、、、とにかく、自分が気持ちよくそれをやる(もしくはやらない)ために手段を尽くす。
どうにもならなければ、覚悟を決めて、損得も忘れてやる(ようにはしてる)。
しかしやると決めたからにはご機嫌にが基本である。
(ご機嫌に文句いいながらってときもあるけど)


面倒をかけ続ける人(依存し続ける人)ってのを、ここ最近何人かみたんだけど、そういう人には必ず、その面倒を引き受け続ける人ってのが、近くについてる。

どっちも辛そうなんだななんだか。

依存体質の人は引き受け体質の人がいくら引き受けようと感謝しないし(しかし引き受けてもらえないと怒り出す)、引き受け続ける人も喜んで引き受けてるならいいけど、その怒り出したりごねたりするのがめんどくさくて、それならやってやったほうがまだマシ、みたいな感じ。当然ながら疲弊してる。


私は、引き受け続ける人のコストを心配してしまう。
引き受け続けるということは、
別にいいことではないから、
神様は見ていてくれないし、
その引き受け続けたことが報われるわけでもない。
それよりももっと自分を大切にする方法があるだろうとか思ってしまう。
たとえそれで依存してる人の心象を悪くしたとしても、
自分をないがしろにすることに比べたら
そんなリスクは大したことがないし、
依存してる人にとっても実はその方がよかったりすることもある。

何でもそうだけど、、、
コントラストなんだよね、こういうの、、。

飲み会に毎回出てる人が1回断ると大ブーイングなのに、
いつも出ない人がたまに参加するとすごい喜ばれる。

いつも引き受けてくれる人がやらないっていうと超ムカつくけど、
いつもドライな人がたまに手を貸してくれると超感激。


お賽銭と一緒でさ、
嫌々払ったものって何のご利益もないわけ。
喜んで払った100円が報われることはあっても、
すごい惜しみながら払った100万には意味がない。


喜んで手伝った1回は人に感謝されるかもしれないけど、
辛そうなのが目に見えて手伝ってくれた100回は(そんな顔してやってくれなくてもいいのにという印象の方が強くて)たいして人の心に残らない。


ご機嫌でいることは、人間の最低限の礼儀だと思ってる。
まあ、いつもやれるわけじゃないけど。


それを各自クリアしてから、他人のことはやればいいんじゃないかなあ。


と思う。

2006年10月26日

時間を抱え込んだ身体

計画的に物事をやるほうではない。
というかできたためしがない。

こういうのは習慣の問題で、
性格の問題ではないのだけれど、
習慣が性格を作ったので、
性格で習慣を変えるのは今更、結構難儀。


私の中の個人的な感覚内では、
時間はいつも伸縮と濃淡を持っている。


たとえば、夏休みの最後の日に一気にやる宿題。
しかし、終えてはいた。とりあえず。
そしてそれに対して「もっと早く取り掛かれば」
とは思わない自分がいたのは事実。

そういうペースで、もともとやるものだったのだ。
休みの最初の方に根詰めて宿題を終えてしまうのも私の夏休みではないし、
淡々と一定量の宿題を毎日こなしていくのも私の夏休みではなかった。

宿題なんてどうにでもなると嘘ぶいて、
小さな罪悪感を胸に思いっきり外に飛び出していく在り方が、
私の夏休みの本質だったし、濃さだったと思う。

旅行の準備は1週間前にやったら興ざめで、
旅行の直前まではきちんと「現在」に意識を向けたいし、

いつも試験のことを心配するよりは、
試験の3日前に集中して心配して、他のときはもっと目の前の毎日に集中する。



こういうのは、あまり頭のよいやり方でないことはわかっている。
実際仕事していく上では、こういうやりかたじゃ回らない。


でも、今の時代、みんな、
いつもいつもいつもいつも、
何かの準備をしていて、段取りを考えていて、

そうやって、みんなの、毎日が、
隙のない、気の休まる時のない、心を空っぽにしてバカやれることのないものに、


 効率的で、均等に薄まった、味気のない


ものになってきているような気がするので、
せめてプライベートでは、こういう旧時代的テンポでもいいかなとか思う。


本来、誰の時間もこうやって、揺れ動いてる。
身体と心のリズムに従って。
無機質な時間は誰に習ったの?


やりたいことをやるときに、
「やるべきことをやってから」じゃ
遅いことって、あるよ。

2006年10月09日

困ったことを、増幅しないようにね。

子供の頃、若干家庭の事情が複雑だった時期があって、
(しかしそれは数年経ちすっかりさっぱりすっきり解消・解決した)
毎日毎日悩み事で頭がいっぱいで、
そういえばその頃は、
周りの、何の悩みもなく、普通の家に生まれてすくすく素直に育ち、
どこどこへ連れていてもらった、何々を買ってもらったなんて、
当然のことのように話す、同級生達を、
のんきでいいなあなんて、恨めしく、
思っていたことがあったんだけれども、

あるとき、突然、その、悩んでることを、
ああ、気にしなきゃいいんだわ、と閃いた。

今思うと、他の子供達が過ごしていた、
子供らしくのびのびとした時間を若干享受し損なった代わりに、
私はタフさを手に入れたのだろう。

おかげで、すくすくと普通に育った同級生達が、
世間的に正しい頃合に、色々と傷つき悩み始めた頃、
そういう作業は私にとってはるか過去のことであった。
培った太い神経は、大人になっても助かっている。
もちろん程度はあるけど、ただ普通に育ってしまうより、
多少面倒な家庭に生まれた方が得だと思うくらいだ。


もちろん、子供の時の恨みや悲しさを
大人になってもずっと抱えている人は居る。
けれどはっきりいって、
それを誰かに埋め合わせしてもらおうと
埋め合わされるべきだと
後生大事に、そんなものを抱えている人を
バカらしいなあと、思う。
そんな埋め合わせは、他人はしてくれない。
神様もしてくれない。

どう考えても、明日から、過去なんて何も気にせずに、
素直に楽しく生きたほうが得だ。


あの頃以来、
一つ確信をしてることがあって、
それは、辛いと思っていたときに、
私は笑ったから、
その後に平和で楽しい日々が来た、ということだ。

何かのスイッチを押した感じがする。
流れを変えるスイッチを。
悲しいときに、ああ、悲しまなきゃいいんだわ、
と気付いたあのときに。


最近また確信しなおしている。


神様がいるとして、
次の運命を選んでくれる基準は、
何が今その人に起こっているかじゃなくて、
今その人がそれを動受け止めているかという、態度だ。


悲しいときに、つらいときに、普通に悲しんでいたら、
哀れんでいたら、恨んでいたら、憎んでいたら、
それは、そのままだ。
その時起こるに違いないと思った悲劇の予兆は現実化し、
嘆き、悲しむべき材料は、その人の望むままに与えられる。


でも、そこで、笑えたら。
あれ、気にしなきゃいいんじゃね?と思えたら。
逆に、結構有り難いじゃん、と、思えたら。
それは、隠しスイッチだ。
すぐに何事もなくなるスイッチ。
その後に思いもしなかった楽しいことが始まるスイッチ。


そう思っている。


もうすぐ20代が終わろうとしているけれど、
その間、気にしそうになったことを「気にしない」という方法で、
少なくとも100個は、問題がいつのまにか消えていた。



何の科学的裏づけもないけれど、
ま、そんなもんだと思う。
所詮、私の人生なんて。



いい意味で。
posted by chanm at 00:29| Comment(3) | TrackBack(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

何をつまらないと感じるか。

しばらくはてなでブログ書くのが面白かったので、Seesaa方面を放置してしまった。。
ブログなんてどこで書いても同じだと思いつつも、
やっぱりそのサービスの癖とか、場の雰囲気とかによって、
若干気分変わりますね。この辺面白い。


さて、夏なせいか、最近岡本太郎さんの言葉を推してるんだけど、

岡本太郎さん、こうも言う。

なぜ、創るのかって?
創らなければ、世界はあまりに
退屈だから、創るんだ。


〜壁を破る言葉〜


世界にいくらモノが溢れていても
退屈だと感じる感性がある人は多いけれども、
それを自ら創ることによって
解消しようとする人はごくわずかかもしれない。


子供の頃はみんなそうだったのにね。


それどころか、消費することにやっきになって、
消費するだけだった1日を「充実していた」と呼んでしまうくらいに、
現代人の心は麻痺している。


まあ、人々がそれぞれに創造してしまうというのは、
もしかしたら地球にひたすらノイズを増やしているだけなのかもしれないけれど、

それでも、
消費で得られる喜びよりも、創造で得られる喜びの方が何倍も嬉しいという
精神構造が私たちにはきっとあるんじゃないかと思うので、
適度に消費しつつ、適度に創造したほうが、
人生は面白いんじゃないかと思う。

消費と創造、インプットとアウトプット。
これのどちらかだけじゃなくて、両方が常に循環して行われている状態を
「充実」とでも呼ぶんじゃないかしらんということで。

2006年06月15日

学問がしたいなあ。

誰かが何かを楽しそうにしているときに、
自分が嫉妬を感じることが、
きっとやりたいことなんだろうと思う。

たとえばコンサートに行って、たとえば講演会に行って、
それを楽しむよりむしろ、
なんであそこに立っているのが自分じゃないんだろうと悔しさばかりが
浮かんでくるのなら、
それはその人が本当にやりたい(そして多分やったほうがよい)のは、
見に行くことじゃなくて、ステージに立つことである、ということだ。

私の場合は、ステージに立っている人も、社長業の人も、
ひとつもうらやましくないんだけど(むしろゆっくり鑑賞したい)、

一つだけ、いいなぁ、悔しいなぁと思うのは、

お互いリスペクトしあっている仲間と激論を交わしている人。
よいブレストが出来ている場面。
違う分野の知同士が同じ現象を考察している時。
誰かと共同で、知を練り上げている人たち。

たまに、なんでそこに入っているのが自分じゃないんだろう、
と思う。

むむう。


やっぱり学問、楽しそうだ。
それも1人でやるんじゃなく、みんなで創り上げる学問。
いいなあ。
知萌え。


ただ、大学で研究をしたりとか、先生を目指したりという
気には全然ならない。
学問で名を成すくらいなら、無名でも普通にダイレクトにお金を稼ぎたい。
娑婆のほうが経験に満ちていて楽しい気がするし。
ということで普通に仕事をしているわけだけど。


よくわかんないけど、
娑婆と学問、なんでこんなに乖離してるんでしょうね。
資本主義とそんなに相反したりはしないと思うのだけれど。
これからかな。
産学連携も進んできたしね。
しかし主に理系だなあ。
ううむ。


私には取り立てて夢がないので、
今まで、宵越しの金を持つという概念がいまいちもてないでいたけど、
(将来に比べて今のプライオリティがどうしてもすごい高い。金がなくなったら死ねばいいじゃんと思ってしまう^^;。)
すこしがんばって娑婆で稼いでみようかなという気になった。


もっと色々な経験や知識を積んで、
頭が柔らかくなって、あと、お金もそこそこ貯めて、環境がいい感じに調ったら、
思う存分なにか学問をやってみよう。
自分が楽しくて、
ついでにいろんな人の役に立つことがいいなあ。



なんて事を思うようになったのは少しやっぱり年を取ったって
ことなのかしら。



まあいいや、友達のみなさん、これから友達になるみなさん、
とりあえず、目の前の責務と、社会の義務を果たして、
知に対して、傲慢でもなく、卑屈でもない頭を培って、
穏やかな、こだわりのない、それでいて希望に満ちた、いい大人になれたなと、
自分達が思えるようになったら、そのころに、

私が”何かラボ”を作りますので、、


その時は、
ねえまた昔みたいに、一緒に学問をしよう。

posted by chanm at 01:09| Comment(2) | TrackBack(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

頂上が楽しそうだ。

学者でも、経営者でも、宗教家でも、
何かを極めるところまで探求した人は、
分野や流派が違っても、
案外共通した事を言っている。

学問の領域が違うのに同じような結論に達したり、
経営手法が全く違っても重視していることは一緒だったり、
宗教が全く違ってもわきまえているものが同じだったり。

それだけでなく、学者、経営者、宗教家、職人、芸術家、スポーツ選手、、
対象や分野は違えど、
成功、、というか、人に夢を与え続けている人たちは、
何かこう、突き抜けた共通点を持っている。
性格とか、考え方とか。

登山道はたくさんあれど、
頂上は一つ、って感じかな。

みんな全く違う道を歩みながら、
ひたすらに頂上を目指してたどり着いたら、
他の道から頂上に来た人に出会ったんだね。

頂上に近づくと、
あまり人との差異がなくなる。
気にならなくなる。
ようである。


つうことは、
何かを目指す場合において、
他人の批判をしたり比べたりに忙しい場合、
他人との差異が大きくて、全然自分と違って、全然気に食わない場合は、


お互い相当ふもとの方にいる、


と思ったほうがよいかもしれない。



基本的に、自分と他人はゴールが違うので、
他人と比較することにあんまり意味がないんだけれど、

もしかしたら、同じ場合も結構あるかもしれない。

でも、たとえ他人とゴールは同じでも、
道は自分だけのものだ。


明確な意思の力で道なき道を開拓してしまう人もあれば、
適当に障害物を避けてのんびり道草コースの私みたいなのもあるけど。。


たまに道が一緒になった人とは楽しくやろう。
道が違う人とは、今やりあうんじゃなくて、
お互いに頂上にたどり着いてから話そう。


下の方にいたときはやれどっちが間違ってると大騒ぎだったけど、
粛々と自分の道を歩んだ後に振り返れば、
なんだお互い結構やるじゃん、なんてね。
posted by chanm at 02:44| Comment(3) | TrackBack(0) | しゃかい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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